55 years ago,Yoshio Nakajima left Japan and hitchhiked from Asia to Sweden.
Year 2003, Nakajima and his family bought an old famous ceramic factory named Rausstenkärlsfabriken. Today, his gallery and arthall are gathered at this place.
Start of the year 2019, Nakajima’s exhibitions will start at Tokyo, Milano, Hong Kong, Monaco, Copenhagen, Stockholm and Amsterdam.
When Yoshio Nakajima turns 80 years old, 2020, his documentary film will hopefully be finished.
At 4.pm on Saturday, January 19, there will be a talk show and a performance.
Come and meet the artist here.
少年期―東京時代
1940年、埼玉に生まれた中島は、小学生の時、ゴッホの描く太陽に捕らわれ、画家になろうと心に決める。
1955年、中学を卒業すると同時に集団就職で上京。様々な仕事をしながら、夜間学校や美術研究所に通うが、画家をやっていくことの現実と、日本という枠の中で自己の夢を実現することの難しさを同時に実感する。それでも既にこの時期には、会場費が要らない場所を見つけ出しては個展を開催したり、描いた絵を道傍で展示、気に入ってくれた人にあげていたという。
東京での中島は、特定の師についたり、団体に属することはなかったが、武蔵野美術大学、明治学院大学等で学び、様々な前衛芸術家とかかわった。そんな中島にロッテルダム美術大学教授ダニエル・ゴールデンが興味を示したことにより、同大学への交換留学生への道が開ける。
渡欧―スウェーデンへ
憧れのゴッホの祖国への渡航が叶うことになった中島だが、その費用がなかったため、なんとヒッチハイクで欧州へと向かうことを思いつく。実際、路上パフォーマンスで自作を売ったり、酒場で唄ったりしながら30ヵ国を通り抜け、半年あまりを費やしてオランダに辿り着いたのだった。
しかし、オランダでもその生活は順風満帆とはいえず、相変わらず路上パフォーマンスなどで日銭を稼ぐ日々が続く。またその過激なパフォーマンスで、警察のお世話になることもしばしばで、遂にはアムステルダムでプロヴォという街頭運動に巻き込まれ、危険なアナーキストとみなされた中島は、国外退去処分を受けるに至った。
その後、ベルギー、デンマークなどを転々とした中島が行き着いたのが、スウェーデンであった。
北欧の沈まない太陽
しかしオランダで、アスガー・ヨルン、その弟のヨルゲン・ナッシュなど、コブラのメンバーと親交を深め、活動にも関わったことは、中島の国際的な成功の萌芽となった。絶えず新たな展開を見せる表現の根本には、力強く明快なコブラの主張が見て取れる。
憧れのゴッホの地を追われた中島が北欧で出会ったのは、白夜による「沈まない太陽」だった。そして、その姿を追い、象徴的に示すことに没頭し始める。
スウェーデンでの中島は、1974年に国際彫刻シンポジウムの企画責任者としてイベントを成功させた功によりスウェーデン政府文化アカデミー賞を受ける。1989年には、コブラ財団よりアスガー・ヨルン賞を受賞し、作家としての地位を確たるものとした。一方で、スウェーデン伝統工芸のラウス焼最後の窯を受け継ぎ、RAUS中島由夫アートセンターを設立、その維持につとめながら陶芸作品にも意欲的に取り組んでいる。